30分の恋物語『彼女とTGV』
『彼女とTGV』(2016年/フランス)監督・脚本:ティモ・ボン・グンテン
あらすじ
舞台は自然豊かなスイスのとある町。主人公のエリーゼは線路の傍らに建つ一軒家に住んでいる。夫は既に亡くなり、息子は自立。いまはひとりぼっちだ。
そんな彼女には日課として続けていることがあった。それは毎朝決まった時間に通る電車に小さな国旗をふることだった。
ある日、エリーゼは庭に手紙が落ちているのを見つける。手紙を書いたのはブルーノという男。毎朝彼女の家の前を通る電車の車掌だった。
これをきっかけに二人の文通が始まる。顔も知らない相手だが、エリーゼは次第に恋心を募らせてゆく……。
見どころ
上映時間はわずか三〇分。簡潔で明快なストーリーだが、ディテールが細やかに描かれている。
特にエリーゼのキャラクターが魅力に溢れていて印象に残った。手紙を書くにもタイプライターを使ったり、ブルーノから贈られたチーズでいっぱいになる冷蔵庫だったり、老いらくの恋に心を弾ませる様子が可愛らしい。
それでいて時折、過ぎ去った時間を感じさせるようなセリフがあって切なくもなった。ブルーノへの手紙に書かれた「昔は息子も一緒に旗をふっていました」という言葉は、時間だけでなく、彼と離れた心の距離までも表していて心に響いた。
【文:スミス】
【構成:リバくん】
夢はいつも迷路――『キラー・メイズ』
「迷路を作ったのは、何かを作りたかったからだ」
長く日の目を見ることなく悶々とした日々を送っていた(自称)芸術家のデイブ。そんな彼がある日作り出したもの、それは「迷路」だった。それもなんとほぼ100パーセント「ダンボール」製である。
開幕早々、部屋の真ん中に現れた迷路の入り口は妖しげな魅力にあふれていた。全体はダンボールなのに煙突がついていたり謎の煙が吹き上がったりして、ただならぬ雰囲気を漂わせている。だが目を引くシーンと対照的に、デイブの元を訪ねた恋人のアニーは冷静で見ているこちら側との温度差が面白い。「またやってんのかこいつ。さっさと戻ってこいよ」くらいのテンションだ。
しかし、デイブは迷路の中にいてなかなか外に出てこない。というのも、迷路を作っているうちに迷ってしまったそうで中は相当に危険らしい。そのうち、不安になった彼女は友人たち(デイブの知り合いでもある)を呼び救出に向かう……。
のだが、迷路に入るまでの間がやけに長い。それもデイブの部屋から画変わりしないので、退屈に感じてしまう。十五分ほどして、ようやく場面転換。アニーたちは迷路の中へと足を踏み入れるのだった。
そこからの迷路内部の美術は素晴らしかった。どの部屋もどの仕掛けも目を見張るような造形物ばかり。何度でも繰り返すがダンボールと紙で作られているから驚きだ。
さらに演出もそれに比例して良くなっていく。恐ろしい怪物のミノタウロスが登場したり、ある場面ではパペットを使用したり、とにかく飽きない視覚効果を提供するサービス精神に溢れていた。
だが美術にステータスを全振りしたからなのか、他の部分がおざなりになってしまったことは確かだろう。特にストーリーに関しては色々ともったいないと思うところがあった。
その一因は日本版の予告と邦題にもある。その両方だけ見れば、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の『CUBE』的な密室ホラーを想起するかもしれない。だが、この作品は決してそのような代物ではない。もちろん人は死ぬし、迷路の中にトラップはあるけど。
ではこの作品が描いているものは何か? それは「夢との対峙」に他ならない。
この作品、原題は「Dave made a maze」(デイブは迷路を作った)というシンプルでテーマに即したタイトルになっている。ではなぜ、迷路を作るのか? そう問われたデイブの答えこそ冒頭のセリフだ。
「迷路を作ったのは、何かを作りたかったからだ」。
彼はもう三十歳。いい加減自分は「やりたいこと」だけで生きていく才能もないと自覚し始めている。しかし引き下がる勇気もなく、まだどこかで夢を見ている部分もある。迷路とはただのアトラクションではなく、その二つの感情に板挟みになっている彼の精神状態を表した観念的なものではないだろうか。
そしてミノタウロスの存在も無視できない。ギリシャ神話におけるこの牛頭人身の怪物は成長するにつれて凶暴になり、とうとう迷宮に幽閉されてしまった。デイブの迷路におけるミノタウロスは、おそらく彼の肥大化した承認欲求を表しているのではないか。
夢は自分の中にあってはさながら迷路のように行き場のないもの。それにどうケリをつけるか。絵や小説などクリエーションの世界に片足を突っ込んだことがある者なら心にくるメッセージを、この幻想譚から確かに感じとった。
コメディゾンビ映画『ショーン・オブ・ザ・デッド』
一九八六年、今から半世紀以上前に公開された一本の映画がある。その名は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』。ジョージ・A・ロメロ監督によるこの一本のフィルムは、「ゾンビ映画」の原典として我々の頭上に天高く輝いている。
そして優れた典型は多くの類型を生み出した。現にそれ以降、手を替え品を替え有象無象のゾンビ映画が作られている。正当なパニックホラーとして作られた日本発の『バイオハザードシリーズ』は、今や一大コンテンツとなった。
そんな中、今回紹介する『ショーン・オブ・ザ・デッド』はゾンビ映画としては珍しいコメディタッチの作品となっている。それでいて真っ当にゾンビを描いた傑作映画だ。
主人公のショーンはとにかく冴えない男だ。勤め先の家電量販店では後輩にさえ舐められ、ガールフレンドのリズとは何の進展もない。それでも親友で同居人のエドとだらだら過ごす日々に満足していた。
だがある日、ショーンはとうとうリズから別れを切り出されてしまった。失意のショーンをなだめるエド。しかしその翌日、更なる悲劇が起こる。彼が目覚めるとロンドンの街になんとゾンビたちがあふれていたのだ……。
ゾンビのタイプはロメロ監督作品を踏襲した、ノロノロ動きのゾンビ達。ショーンが一向に気が付かないまま街中を歩く中で、次々に異常な事態が起きているシーンが不気味で目を引く。
この作品ではゾンビの出現に関する実験や、陰謀などは一切ない。ただ日常が破綻し危険に塗れた世界をサバイブしてゆく様を描く……と言えばかっこいいが、ショーンとエドの生きる世界はやっぱりどこかユルい。時にシリアスな現実を目の当たりにしつつも、繰り出される間の抜けた掛け合いが癖になってくる。そして最後には二人のダメ男の「強すぎる」友情に胸が熱くなることだろう。
オフビートな笑いを巧みに織り交ぜたスタイリッシュな映像は、今作の監督エドガー・ライトの作風が遺憾なく発揮されたものだし、細部には様々なゾンビ映画のパロディが仕掛けられている。そうしたイースターエッグを探すのも楽しみの一つだ。
これが僕にとっての『映画』と言うもの〜ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア〜
その光景が見たいからいまも生きている。
そう言い切れるほど頭に焼き付いて離れないシーンを見せてくれたのが、『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』だ。
ストーリーはいたってシンプルだ。とある病院で、死期を間近に迎えた二人の男――マーチンとルディは出会う。同じ境遇の二人は意気投合し、やがて人生の良い終わりのために、病院を抜け出して海を目指す(&そのときに盗んだのが大金を積んだギャングの車でさぁ大変)というもの。
二人が海を目指すのは、マーチンのこんな言葉がきっかけとなる。
「天国じゃみんな海の話をするんだぜ」
この作品を象徴する幻想的なセリフからは、人生の最後に誰かと同じ思い出を分かち合いたいという願いが感じとられる。死を受け入れようとする途中段階にあるような心情を表しているようで、リアリティがあって大好きなセリフだ。
しかし、このファンタジックな質感はあくまで魅力の一つに過ぎない。僕が惹かれるのはそこではなく、感傷的になりすぎない「死」の描き方だ。
天国の話からすぐ後、二人が病院を抜け出す一連の場面は湿っぽくならない。先程とは打って変わって、軽快なテイストで撮られている。
そこで気付かされるのだが、この旅は死から逃避するためのものではない。ましてや死に抗ってゆくわけでもない。死を否定した先にあるのはバッド・エンドだ。彼らは死を受け入れた先の良き最後――グッド・エンドを自分たちから迎えに行っているのだ。
海を目指す途中で色なトラブルに巻き込まれ、「死ぬ前にやりたいこと」も叶えようとゆうことになっては、また一悶着起こしたり……それでもあっけらかんと旅を続ける二人の姿は見ていて気持ちがいい。スピーディーな展開と軽妙な会話であっという間に時間は過ぎてゆく。
そしてあのラストシーンを迎える。二人が旅の果てに行き着く場所、そこには慟哭も悲嘆も無い。ただ寄り添う二人の姿と曇り空と海。淡々と流れるその光景の美しさは、何度見ても息を呑んでしまう。
いつも見終わった後には静かな感動が波のように引いて、元気が湧いてくる。
二人が見ていた天国をいつか自分も見るために生きよう、と。